2016年11月29日火曜日

「人類のやっかいな遺産」 ニコラス・ウェイド 著 山形浩生、守岡桜 訳 晶文社 2016年 / 「元サルの物語 科学は人類の進化をいかに考えてきたか」 ジョナサン・マークス 著 長野敬、長野郁 訳 青土社 2016年

今回は、「人類のやっかいな遺産」及び「元サルの物語 科学は人類の進化をいかに考えてきたか」の2冊の書籍に関する論評です。但し、この2冊は、私自身の訳書(前者は途中まで訳したものの出版が流れてしまった流産企画ですが)である点、また、他のリンク元からも参照したいこともあって、外部リンクの独立サイトとします。本文は、以下のリンクを辿ってください。

人類のやっかいな遺産 及び 元サルの物語 科学は人類の進化をいかに考えてきたのか

2015年7月26日日曜日

「ラブライブ!」 京極尚彦 監督 TOKYO MX 一期2013年、二期2014年

 アニメ版ラブライブ!が大盛況である。2015年7月15日現在では、劇場版は、けいおん!、やまどか☆マギカ、を越えるほどの興行収入に達してまだ伸びているらしい。ただ、私は劇場版は未見なので、ここでは二期に亘って放映されたアニメのテレビシリーズからわかる内容について触れてみたいと思う。(その後、2016年3月30日に劇場版をビデオ視聴したが、言いたいことは変わらなかったので、本稿の内容はそのままとする。) 

 ラブライブに登場するμ'sの9人の中でも、特に注目すべきはにこに―こと矢澤にこであろう。このキャラクターの特徴としては、極度に自分のキャラ建ての方法論や戦略性に関してうるさくて、極めて明文的、自覚的に自己のキャラ建てを行っているという点である。(あの「にっこにっこにー」である。)この自意識の饒舌さは、ある意味でいわゆる「ぶりっ子」にも相通づる。両者とも自分のキャラ建てに関して明確に戦略的な振る舞いをしており、極めて自覚的であるからである。しかし、にこは「ぶって」いる、すなわちフリをしているワケではない。ここが、極めてこのキャラクターの一種現代的な特徴と言える。

  この現代的特徴とは、平たく言うと、要するに「いい奴」なのである。アニメキャラクターであるがゆえにいささか図式的に単純化されているという事情を差し引いても、μ'sの残り8人は、少々自意識不足のきらいのある、単純というか、単細胞な所のあるキャラクターだ。対照的に、にこは極端に大量の(過剰の、ではない)自意識と自己戦略性を持った、ともすれば頭でっかちとも取られかねないようなキャラクターである。しかし、頭でっかち特有の嫌味さがない。それは、にこは戦略的振る舞いをしていると言っても、べつに「フリをしている」ワケではないからである。

  フリをしているとはどういう事であろうか。それは、自己の戦略性を自覚してしまっている自意識が、当の戦略性の外部にくくり出されて、いわば自分を「外」(実はそれもまた内部なのだが)から観察している状態になっているということである。言い方を変えれば、自分の自意識が、当該の自分の戦略性を体得的には信じていないということだ。
 その結果、自分の戦略的な身体的振る舞いを自分の自意識は信じていないという乖離が生じる。これと対照的な在り方は、従来は、いわゆる「バカ」とされてきた。「バカ」とは、自分の振る舞いに明文的、自覚的な戦略性を思考のレベルでは考えず、それをもっぱら条件反射に任せているタイプの人格である。対して、「リコウ」は、自分で自分を観察する知性を持つがゆえに、自分では自分の振る舞いを信じていないのが当然と、従前はされてきた。 

 にこが独特なのは、この従来的な二項対立のどちらにも当て嵌まらないという点だ。にこは極めて大量の戦略性を以て自分の振る舞いを律しており、当然フィードバックして自分を自分で観察もしているが、にもかかわらず(従来型の「リコウ」とは異なって)自分で建てたキャラクターの意味を体得的に信じ、それを振る舞いを通じて実践しているのである。この点で、「バカ」と同様に、頭のレベルと身体的振る舞いのレベルで生理的な指向性が乖離しておらず、一致しているのである。この結果、自分で自分を信じていないことから来る、従来型「リコウ」特有の嫌味さが無く、どちらかというと「バカ」の傾向がある残り8人と全く選ぶところなく、爽やかないい奴なのである。 

 にこの視点でものを考えてみるなら、むろん、そのメタレベルの戦略的思考能力を有しているがゆえに、残り8人について、何かと当人が気付かないような点にまで発見を行うことも多いだろう。しかし、にこのメタレベルというものは、オブジェクトレベルの外部にあるものではなく、オブジェクトレベルの意味や概念を整理するために生じた仮設作業台のようなもので、基本的にはオブジェクトレベルと地続きの基板上に立脚している。それゆえ、他人に関して何か気が付いたとしても、それは、一方的に(外部から)見破ると言った一方的な権力的な視点では有り得ず、ただ、他者について人よりよく気が付いているという量的な多寡に過ぎないことになり、その意味で「バカ」ともタメというか、対等なのである。(従来型)「リコウ」特有の、根拠が自意識構造にしか立脚していない、理不尽な権力性が無いのだ。 

 ラブライブ!に関しては、多く、いわゆる「萌え」消費的な観点から現象が捉えられがちで、当のファンですらその「好き」の意味を十全に言語的に分節化できず、「ラブライバー」を自称することでアイデンティティを示し、外部に対しては自己主張を、「ラブライバー」内部に対しては連帯を求めたがる傾向にあるように見える。それを一概に悪いと言わないが、その「ラブライバーを自称し、そのアイデンティティベースの生活を行う」ことの意味を自覚的に整理し、その上で、その整理した戦略性の上に乗って、効率的にファン生活を行えば、この作品の鑑賞からより多くの果実を引き出すことも出来るのではないだろうか。
 まぁ、平たく言ってしまうと、にこの「自意識がいっぱいあるめんどくさい奴なのにいい奴」という人格類型や、もっというと人生観・生き方のようなものに共鳴し、そこから多くの教訓や学びを引き出すことも出来るのではないかと言いたいのである。 

 今回の考察では、もっぱら成立したキャラクターの「人格」に着目する立場から論じ、作品の成立過程における各スタッフの寄与や功績の分析のようなものは行っていない。これは一つには私がそうしたスタッフワークの各論について通じていないという資質的な限界があるが、もう一つには、視聴者の立場から完成した作品を論じる際には一つの在り方として成立した作品を前提にそこから見えてくるものを論じるのも「アリ」だという主張でもある。
 作品論という時にスタッフワークを中心に着目し、各スタッフの寄与について分析したがる(オタクとは異なる)古いタイプの「アニメファン」には物足りない考察だったかもしれない点はご容赦いただきたい。

2015年5月15日金曜日

「必ず結果が出るブログ運営テクニック100」「プロ・ブロガーの必ず結果が出るアクセスアップテクニック100」  コグレマサト・するぷ インプレスジャパン 2012年・2013年


今回取り上げるのは、「必ず結果が出るブログ運営テクニック100」および「プロ・ブロガーの必ず結果が出るアクセスアップテクニック100」という本である。

なぜ今ブログ運営の参考本を読むのかというと、このブログ「真予定調和共和国」とは別に、速報性・共時性のある日記ブログ「予定調和共和国」を立ち上げたからである。
そこで、運営の参考にしたいと思い適当な本を読んでみたいと思い、以前から「積ん読」になって手許にあったこれらの本を読んでみることにしたのである。

その感想はこのブログ「真予定調和共和国」にアップするとともに「予定調和共和国」にもアップするが、その切り分けや使い分けがどうなっているのかを明確化するために、「予定調和共和国」とは異なる「真予定調和共和国」のスタイルや存在意義について説明させていただきたい。

結論を言ってしまうと、この「真~」は、読書感想ブログという形式を取ってはいるが、根本的には、自分のベース・核となる思考、大げさに言えば思想や、意見を形にして残しておきたいと思い書き残したものだ。そういう意味では、速報性のあるブログというより、固定した内容を持つ「本」を書いたという感覚に近い。

その意味で、本来は内容的には、あまりブログという形式にふさわしいコンテンツではない。本来、固定ホームページで展開するのが相応しいような内容なのだが、しかし、固定ホームページとするにも分量がこれだけでは寂しく、またページの体裁を整えるのも億劫だったので、ブログという形式に依ったものだ。

一方で、新しく開設したブログ「予定調和共和国」は、速報性や((読書感想なら)本を読んだ時点からの)共時性を重視した、「ブログ」と言って一般にイメージされるような切り口で書いてゆきたいと思っている。

この「真予定調和共和国」は、そういう、ストックされたコンテンツという性格を持つものなので、折に触れフローのブログである「予定調和共和国」からこの「真予定調和共和国」の各ページへとリンクを貼って紹介してゆくような使い方をしていきたいと考えている。
ただ、それのみだと「真~」独自の発展性もなく更新の目途も立たないので、今後は「真~」にも実用的な書籍のテンポラリな感想なども書いてゆきたい。だが、それも主に固定した「論」という切り口から書いてゆくつもりだ。

さて、そこで本の内容である。先日も「予定調和共和国」で述べた事だが、「必ず結果が出るブログ運営テクニック100」は、各種ツールを使った効率的なブログ執筆術やアフィリエイト、広告の使いこなしなどが中盤以降の主な内容となっている。
思うに、中級者以上の段階に差し掛かれば自ずと手が効率化ツールを求めるものだと思うので、その時に、ブログの効率的な運営を求めて、またこの本を読み返してみるのは良さそうではある。だが、今はまだ私は、手がブラウザの編集画面を物足りないと感じる段階に達していない。

また、アフィリエイトや広告が効果的に成立するほどのアクセス数も当面はない。

それゆえ、この本はどちらかというとブログ上級者向けだと思う。少なくともブログ入門者の私には当面あまり役には立たなかった。

一方、「プロ・ブロガーの必ず結果が出るアクセスアップテクニック100」の方は様子が異なる。冒頭から、ネタ探しの方法、書き方における基本や心構え、記事ごとの切り分け方やカテゴリの使い方、記事相互間のリンクの貼り方、埋め込むべきタグの紹介など、初級者にとっても目の前にある、ブログの具体的な記事それ自体に即した内容である。
実際、私はこの本を読んで、早速、「予定調和共和国」にポストした記事に大量の<strong>タグを埋め込んでみた。

そういう意味で初級者向け、というか、上級者が読んでも参考になるが初級者が読んでも参考になる内容で、この本は役に立った。

また、やや上級者向けの内容では、アクセス解析の仕方や、そのブログ運営へのフィードバックの方法等にも触れられており、初級者でも興味が持てる内容と思う。
同じ著者の連作としては前者が初回作であるが、どちらかというと、後者「プロ・ブロガーの必ず結果が出るアクセスアップテクニック100」がパートワンの方が、ふさわしような気がした。

2013年11月3日日曜日

「オタクはすでに死んでいる」 岡田斗司夫 著 新潮新書 2008年

 今回は、近年のオタク論の流れを俯瞰すればやはり無視できない著作である、岡田斗司夫の「オタクはすでに死んでいる」を取り上げたいと思います。

 この著作の最大の問題点は、オタクというカテゴライズが、もともと外的に押し付けられた「ヘンな奴収容所」だったのだ、という明晰な着眼点がありながら、その説と、「萌え」の問題との間に存在する筈の密接な関係を完全に見落としている点にあります。
 岡田斗司夫の「オタク収容所説」によれば、この社会的な「収容所」に入れられてしまう理由は、子供向けのアニメを見ているから、という事などのほかにも、単に子供っぽい、社会性がない、なども入れられる理由になるとの由でした。すなわち、「オタク=コミュニケーション的不具者」説という事になります。こうしたいわゆる古典的イメージのオタクを、ここではハゲデブ系と仮に呼びましょう。デブの不細工なハゲで、キャラクターの荒廃したタイプの人物像というわけです。

 こうした人物が出来上がってしまう背後には、学校におけるイジメの問題が存在すると思われます。すでに述べて来た通り、権力固着世界では、クラスルーム内でのイジメは必然的な現象なので、こうしたキャラ類型の人物が一定割合出来上がってきてしまう学校教育というのは、驚くには値しません。こうした世界では、ちょっとした異端者は単に異端というだけの事としては受け入れられず、蔑視とバッシングの対象になってしまうからです。その排除の結果、ますます異端の度を増して見るからにオタクオタクした人物像になってしまうわけです。
 そして、このハゲデブ化を回避して生身じみた身体を獲得する為にこそ必要な概念的ツールが「萌え」でした。既に森岡正博の「感じない男」で述べられている通りで、萌えオタクとは、少女という身体性を着たがっている者のことです。そして、多かれ少なかれ少女を着ることに成功した者が、昨今のフツーっぽいオタクという事になると思います。

 ちなみに、かつて萌えという概念がなく、イジメの対象になっていたコミュニケーション不具者も、女性をオヤジ目線で対象化して見るという常識の中にいた時代には、一部の頭のまわるオタクは、ハゲデブ系のキャラ荒廃をさらにパッケージング化して、私の用語法で言うところの「ロボット系」という、人工偽オジサンをアバターとして着込んでいたという主張は、すでに何度か述べた通りです。

 むろんこれは実は、大人男社会という、空気やノリといった阿吽の呼吸で交流する女子供の世界とは違う、ロゴスで理屈のコミュニケーションをする世界では、動物的なアバターが重視されて来なかった為に、しばしば大人男社会での成功者が、外見的には滅茶苦茶な荒廃したキャラの持ち主であったりしたことのことの戯画的なカリカチュアライズです。

 この際、問題になるのは、私の言う、先行世代の価値観の底部にヘバリ付く生き方をする、いわゆる「コバンザメ」です。コバンザメは、その成育歴の上ではイジメ教室というような動物的振る舞いが致命的に重要になるステージで栽培されてきた結果生じた人物類型産物ですが、先行するオヤジ世代のロゴスの社会秩序に偽適応することでその社会生活を営んでいます。その結果、下の世代には、若者は反抗して当然などと余裕ぶって正論を吐きながら、自分が大人になる段階では単に先行世代に迎合しただけで反抗した実績がない。そういう意味では、彼らは嫌にませた子供に過ぎず、その余裕ぶった態度は大人ゴッコに過ぎないわけです。
 マンガ「逆境ナイン」に出てくる不屈闘志の親父のように、「さすがだ!」と後進を認めつつも、「お前がやったぐらいのこと、当然ワシもやっておるのだ! 増長するほどのことではない!」と胸を張って断言できるようでなければ、到底マトモな大人とは言い難いと思います。
 そう考えると、実は「実年齢より上に見られたがる」という、いわば「大人ぶる」風潮のほうが、こうした自分の成育歴の延長ではないロゴスベースの大人社会という物への、過剰適応願望なのではないでしょうか。


 ところで、オタク的作品の内容そのものによって、そういうコバンザメを含めた大人男社会の論理的な物語は女子供の世界にも還流してきていますから、実は価値観的には両者は認識は共有化されています。すなわち、近年の女子供には、動物的な身体性とロゴスの理屈を両方具備した新種が出現してきているという事です。

 ところが大人男社会は相変わらず女子供、つまり動物的な身体を持った人種はロゴスの理屈を喋らないという前提で、その論理的無知を教育するという態度から動かないわけです(=上から目線)。その結果、何も無い筈のところに差別の壁だけが設置されて、その両側で本来は同じ価値観を持った者同士で交戦する結果となります。これが、現在問題となっている格差社会という物のある断面からの把握と言えると思います。

 こういう不毛が支配する世界では、勤勉といっても、長期の計画を立てて何か取り組みに励んでも、成果を回収できる見込みは低くなります。社会の中心に意味不明のいさかいだけが居座っていて、全体が秩序を成していないために、その紛争の行方が見えず、予測不可能性が高いからです。岡田は、冒頭で「日本人は消費や勤勉の向こうにある、誰も知らない次のステージに入ってしまった」と言っていますが、それはそういう予測不確実性の結果生じた事態でしょう。

 こうした社会では、綿密に計画を立てて勤勉に励んでも、成果を回収できるとは限りませんから、イキオイ「損するのは嫌」という話になる。ここで「一方的な損を引き受ける覚悟」をした者を「大人」と言うと岡田斗司夫は言っていますが、これはちょっと違うでしょう。それは、大人というよりは、ただのお人好しです。こうした社会での最適化された大人の行動とは、木も見て森も見る態度であると私には思えます。つまり、短期スパンで個人的な成果も回収しつつ、中長期的展望も持ち合わせた人物が理想的な大人なのではないでしょうか。

 え、私のこと? お前自身はどうなんだ、ですか? 私自身のこれまでの行動は余りにお人好し方向にバイアスの掛かったものだったので、取り敢えず、今は、ちょっと暫くのんびりして、いろいろと個人的取り組みの結果を待ってみたいと思っています。こんな不確実な世の中ですから…。

2013年10月11日金曜日

「女犯坊」 ふくしま政美 著 復刻版は太田出版 1997~1998年

 「女犯坊」について語る、評する、コメントするという時に、一番目につく、というか鼻につく語り口とは何でしょうか? それは、遠巻きに見守る態度・腫物扱い、というスタンスだと考えます。言い方を変えれば、この書物で扱われている問題を他人事扱いして、自分の身の上に引き移しては考えない、という読書態度です。なぜそんなよそよそしい態度でこの書物に接しなくてはならないのか? それは、狂っていると思われたくないからでしょう。確かに、このマンガはある種の狂気を孕んでいることは間違いなく、その空気に即自的に共感的な読後感想を表明すれば、その読者自身に狂人のレッテルが貼られかねない危険な書物であることは間違いありません。

 私が女犯坊を初めて知った理由は、コミケで「少年チンプ」というサークルがネタとして取り上げていたからでした。その当時刊行された分厚い復刻版には、巻末解説にこのサークルのメンバーのコメントも収録されており、あの時期(ちょうど前世紀末の頃です)、このマンガに注目していたのが一部のサイコ好きのプロの論者だけではない事を今に伝える貴重なコメントです。
 とはいえ、彼らの女犯坊に対するスタンスも、基本的にはトンデモ漫画という扱いの域を出るものではなく、ある意味では世の一般のこのマンガに対しての扱いの例外とは言えません。

 なぜ、そういう遠隔腫物扱いのようなスタンスを超えて本書の思想的な内実に踏み込むコメントが乏しいのかという理由は、すでに述べたとおり、狂気の同類扱いされたくないからでしょう。しかし、狂気というのも、実は普遍的なものです。人は誰も狂気を内に持っているもの。というより、思想とは即自的に本来一種の狂気であるよりほかないのではないでしょうか。
 それをあたかも狂気でないかのように体裁よく見せるものが技術です。十分なウェルメイドな技術水準は、狂気に分節化された構造を与え、誰にも親しみやすい、読むに堪える書物に変えます。女犯坊の、(自称)常識人から腫物扱いを呼んでしまうという大きな欠点は、この、技術水準が余りにも不十分なのに、あまりにも大きく熱い思想を語っている点にあるといえるでしょう。

 そこで、ここでは、この欠点に敢えて目を瞑り、女犯坊の思想的内実を検討してみましょう。と言っても、実は、思想の熱量は大きいものの、語られている構造は単純です。すなわち、この世を無間地獄と見做すというのが一点、そこに、ある種の暴力的な世直しの可能性を見るというのがもう一点。

 このレベルに踏み込んで見た時に見えてくることが、この著者ふくしま政美は、「終わりのない日常」を終わりのないものとして生きることに耐えられないタイプの人物だろう、という事です。これを、私は「過ぎ去る者」と仮にここでは呼んでみますが、要は、歴史に、救済とか、あるいは最低限、進歩の可能性を読み込んでいるからこそ、世直しとか、悪といった諸概念をあまりに稚拙なその描画で描いてしまうのでしょう。

 私自身は、この作品の内実のレベルに踏み込んで、女犯坊の思想的側面にコミットすることは厭いませんが、それに共感するかというと、答えはノーです。なぜなら、私は、「終わりのない日常」を終わらないものとして定常的動的平衡とみなして生きることに賛意を示す者だからです。つまり、原理的な意味での「世直し」という物を信じていないし、この世が無間地獄に限りなく近いとは思うものの、それそのものだとも思っていません。つまり、「ここは天国ではない、かといって地獄でもない」。要するに、私は、世界に「棲み付く者」だという、そういう事です。

 ただし、女犯坊的な、救済志向の考え方が出てきてしまう思想的背景についてはよく理解できます。すなわち、最上層における権力の固定した世界では、最下層もまた固定され、虐げられた者は同一人物が永久に虐げられっぱなし、という構造を強要されます。そういう理不尽に対する怒り・異議申し立てとして、「地獄を世直しする」というような考え方が生じてしまう。
 しかし、これは、人の世が原理的に無間地獄だという誤解に立脚した思想でしょう。人の世が、その最下層で固定した地獄になってしまうのは、最上層における権力が定常的に更新されずに固着してしまった場合だけです。実は、戦後の日本は、学園紛争が敗北してからというもの(あるいはその紛争の最中からすでに)、永くこの権力の固着状態にあったために、こうした「この世は虐げられた者にとっては無間地獄」というありがちな誤解を、生得的な感覚としてこの著者は自分に刷り込んでしまったのではないか。
 実際には、最下層の賤民の役回りは、多かれ少なかれ回り持ちで、完全に固定したものではありません。私もまた、そういう認識のもとで、上昇志向を持って生きる下層賤民の一人なのです。

2013年9月22日日曜日

「民主主義が一度もなかった国・日本」 宮台真司・福山哲郎 幻冬舎新書 2009年

 この本では、第一の著者・宮台真司が、当時、自民党から政権交代した民主党の政党の中枢にいる、第二の著者である政治家・福山哲郎にインタビューするというような形式で、政権交代によって日本の何が変化して何が変化しないのかというような話を展開しています。現在は既に再び自民党の政権下にあり、今となっては民主党への政権交代も一過的なものだったとも振り返ることもでき、また、政界では、いわゆる第三極の動向なども注目を集めていますが、この本が出版された時点では、民主党に対して政権政党としての期待も高かったということなのでしょう。

 話は、日本の内政から外交にまで多岐にわたり、その中でも権威主義的な「お任せ政治」の転換のことを強調しおり、民主党への政権交代がその一つのメルクマールであると述べています。そして、それを成し遂げたのは他ならぬ国民自身なのだ、と強調していました。
 しかしながらその中で、著者・宮台真司が特に強調していることは、「何もかもが変わったわけではない」と言った指摘でしょう。著者は、繰り返し述べていますが、民主党に政権が交代したからと言って、何もかもが変わったのではないと言っています。特に、日本人に特徴的な心性として、慣れ親しんだものの急な変化に抵抗しがちだ、という指摘を行っていました。このことを指して「社会的リソースの不変」という言い方をしているようです。

 ですから、巻末付近で著者らは、日本で変わったものは、いわば現実というゲームのルールが変わった、と述べています。つまり、変わるといっても、ムラ社会的な日本的な社会的リソースが不変という前提下では、リソース自体は変わらない。変わるものとは「自明性」であると言っています。そして、その自明性の変化によって新しいゲームが始まったのだ、と、ここで著者らは主張していました。

 では、その新しい自明性・すなわち別の言い方では「ルール」とは何でしょうか。事は、政治の問題だけではなく、この国において暮らしていく上でのリアリティの問題に及ぶと思われます。ですから、ここで重要なのは、日本的特質とされてきた、外面的ふるまいと肚の中の乖離の在り方に関する自明性が変わるということなのではないでしょうか。私が思うに、それは以下のようにまとめることができると思います。

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ゲームのルール1
行為、言論、主張、表現など、すべての人の行いがことごとくそれそのものであるということ、それが21世紀のゲーム的リアリティ現実の最も基本的なルールである。


 ゲームのルール2
己を知る者に、自己を自分が自分だと感じている通りに承認させた者が、この現実における勝利者である。
逆に、相手に不整合を押し付けることで他人をおとしめて相対的に自分を優位とすることもできるが、この方法ではその特定の相手にしか勝利し得ない。


 ゲームのルール3
自分を知る者に、自己を己が感じている通りの者であると承認させるには、様々な方法がある。列挙すると、

1.スポーツ、芸能など、直接自分の身体を利用してディスプレイを行うパフォーマンス系統の自己表現行為
2.文学、マンガ、アニメなどメディア作品を通して自己の信じるミームを拡散させる行為
3.絵画、彫刻など、複製不可能な作品を展示する芸術的な行為
4.自分の社会的位置付けである職業や立場などを利用して自分のあり方を示す行為
5.未成年などなら、学生などの身分を以て同様に自分のあり方を示す行為
6.電子的なサイバースペースで自己の意見、立場、画像などを掲示する行為
7.服装や所持品などで自分の趣味や嗜好を示す行為
8.音楽の演奏により、抽象的に思想、感情を表現する行為


ゲームのルール4
どのような自己表現行為であっても、その内容に自分自身の身体以外の人物像が内容として表現される場合がある。この場合は、その作者は、複数存在するかもしれない、その作中人物を自己の似姿であると主張してその作中人物の表現行為を以て自己の表現行為であると主張し得る。
また、他人の作品や作中人物を自己の似姿として用いる場合は、その作品を(その作品が複製可能か否かに関わらず)いわゆる市場で購入すれば、こうした主張も成立する。
なお、その似姿の性別が本人の性別に一致している必然性は、必ずしも、無い。
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 あと、少々余談ですが、著者・宮台真司が「言わなくても当てにできる自明性」がある場合は、それは「指摘」するより「利用」した方がいい、と述べている個所がありましたが、当の「自明性」の在り方そのものを操作する目的がある場合は、その自明性を意図的に指摘することで、「問題」を「一挙にこじれ」させて、従前の自明性自体を骨抜きにするという方法論的な戦略性もアリだと思いました。

今回はこんなところです。

2013年9月21日土曜日

「決定版 感じない男」 森岡正博 ちくま文庫 2013年

 今回は、新書「感じない男」という本の文庫化・増補として出版された「決定版 感じない男」を取り上げたいと思います。ただし、文章が余りに長すぎるので、別サイトのホームページに掲載します。下記のリンクを辿ってください。

スカート姫について(リンク)
スカート姫について(ミラーリンク)